脳の優れた並列分散処理メカニズムを知り、次世代のIT技術を創造する。



脳における並列分散処理
 脳における計算素子である個々の神経細胞の演算処理能力は、60年前に世界で最初に発明されたコンピュータ(Atanasoff-Berry Computer/ABC)に用いられた真空管よりはるかに劣っている。しかし、脳全体の演算処理能力は最新のスーパーコンピュータでも到底追いつくことはできない。これは、脳がコンピュータにたとえるなら極めて高度な並列分散処理システムであるからである。つまり、脳は多くの神経細胞が極めて整然とシナプスやギャップジャンクションを介した演算回路を形成しているばかりでなく、高次の統合的情報処理段階にいたるまで個々に独立した極めて多くの演算回路が集合した情報処理システムとなっている。このため、脳は個々の演算回路の能力は劣っていたとしても、同時に大量の情報処理を並列に行うことによって、極めて高速な演算をハードウエア的に可能にしている。また、視覚系や運動系で詳しく研究されているように、脳は演算処理において、結果から原因を推定する逆問題を解くアルゴリズムを用いているものの、その多くが数学的に一意の解を得ることのできない不良設定問題の性質を有している。しかし、脳は不良設定問題を解くにあたって、様々な仮定というしかけを有している。このしかけを巧妙に使うことによって、ソフトウエア的にも高速な計算を可能にすると同時に、人格や感情、動機付け、記憶、推論、言語の使用といった人間らしい認知機能をヒトの脳に付与している。

脳の進化に学ぶ
 脳の情報処理メカニズムはハードウエア的にもソフトウエア的にも、現在我々人類が有しているテクノロジーをすべて結集しても到底再現することはできない。このような優れた情報処理システムが受精卵から成人にいたる個体発生の過程で、わずか1.3kgの脳の中で実現されるのは40億年の進化の奇跡といえる。また、次世代のIT技術の飛躍のために、脳の情報処理メカニズムから学ぶことは多い。私は、脳の優れた並列分散処理のメカニズムを詳細に解析するために動物の視覚系を用いた研究を行っている。視覚系は脳の情報処理の中でも、特に高度に並列化されたアーキテクチャーを有しており、しかも外科的なアプローチも聴覚系、運動系に比べ容易である。これらの利点から視覚系を研究対象として用いる意義は大きいといえる。特に通常意識に登ることのない概日リズムの光同調、瞳孔反射や追従性眼球運動など皮質下視覚機能における視覚情報処理メカニズムは高度に機能分化するとともに精緻に並列分散されたアーキテクチャーを有している。このため、皮質下視覚機能の研究から、次世代のIT技術の発展に多くの手がかりを得ることができると期待される。

 私は現在、概日リズムの光同調および瞳孔反射に関わる網膜内の神経回路網に関して神経解剖学的、神経生理学的な研究を行っている。これらの神経回路網は外界から必要な視覚情報すなわち輝度のみを効率的に検出するだけでなく、リニアな特性を持つ二種類の光センサーから得た輝度情報を巧みに融合させ、ノンリニアな情報へと変換していることを私たちのグループはすでに発見している。そしてこのノンリニアな情報変換は、神経回路網のシステムとしての信頼性と安全性を高めることに寄与していると考えられている。今後は、ノンリニアな情報変換アルゴリズムを実際のコンピュータプログラムに実装できるよう詳細に解析していくことを計画している。また、網膜内において、眼球運動に関わる神経回路網では、エッジ検出に関してさらに複雑で精緻な情報処理がなされており、私達のグループでも研究に挑戦したい。

ラット網膜表面における視神経繊維束の走行

ヒトの並列分散処理
人格や感情、動機付け、記憶、推論、言語の使用といった人間らしい認知機能は、脳における神経回路網の構造と機能により構成され、決定されている。また、近年の認知科学および情報科学の研究によって、これらの認知機能は脳における高度な並列分散処理によって実現されていることが明らかになってきている。私たちのグループは、ヒトにおける認知科学的研究にも着手しており、概日リズムの光同調という脳において比較的低次な情報処理システムが人格や動機付けといた極めて高次な情報処理システムの影響を強くうけていることを大規模な調査により明らかにしている。今後、これらの全く別の情報処理システムがどのように相互作用しあっているのかを明らかにしていきたい。また、注意すなわち外界から必要な情報だけを効率よく取捨選択するメカニズムは、我々の生存にとって非常に重要な脳の機能である。この注意のメカニズムの研究を並列分散処理の観点から進めていきたい。

マウスにおける概日リズムの光同調